西郷頼母家の悲劇とは [日記]
西郷頼母家の悲劇を描いたテレビ番組を見ました。
番組は「二十一人の墓」の紹介から始まりました。「二十一人」とは会津戦争の時、西郷頼母邸にいた家族のうち女性全員だったようです。
西郷家は藩主松平家と親戚関係にあって更に徳川家にもつながる名門だったそうです。西郷家は会津若松城の真正面に屋敷があって敷地面積2400坪、部屋数38の大邸宅だったそうです。
番組は前半新政府軍によって猛攻を受けるまでの過程といよいよの時になって会津城へ籠城するように誘いが来たのを断り、生き恥をさらすよりもと自邸宅で自害した西郷頼母の妻と女性たちを描いていました。西郷頼母は妻千重子との間には長男のほか次々と6女を授かったそうです。千重子も上級武士の娘で長男はもとより娘たちにもいざとなったら藩主に忠節を尽くすように礼節を教えていたそうです。
そして西郷頼母自身は藩主容保が京都守護職に就任するのを「薪を背負って火の中へ行くのも同然」と反対を進言。しかし聞き入れられず蟄居を命ぜられたにもかかわらず、会津藩が朝敵となった危機的状況の中、家老に復帰。
ここでは新政府軍と講和に持ち込みたかったがこの時点では理解者は少なかった。いよいよ会津城が危なくなったら講和を主張するものが多くなって「何を今更」と反対する頼母は邪魔者になったらしくて追放されてしまったらしい。
番組後半は妻子を失った頼母が30年に渡る漂白生活を送ったことを伝えていました。
頼母は降伏すれば会津の恥を晒すことになると激怒して長男吉十郎を伴って城を出たそうです。北海道に向かう旧幕府軍に合流して敗れ幽閉。幽閉が解かれたとて会津には帰る家もなく流浪の身となりました。その後の生活は私塾の教師をして糊口をしのぐなど生活は楽ではなかったようでした。その中で最大の悲劇はそれまで生きる支えだった長男を病気で失ったことでした。その後約20年各地を渡り歩いたそうです。そんな頼母ですが最後には会津へ帰って居を構えたそうです。この住居の玄関は戸はなくむしろを掛けただけのものでした。お金を他人に無心することもしばしばあったそうです。
生き恥をさらすことを嫌った頼母がなぜそういうことをしたかといえば家族の墓のそばに自分の墓を立てたかったからだそうです。頼母の墓には当時としては珍しい夫婦の名前が刻んであるそうです。
頼母は漂白の時代にも磐梯山に似た格好をした黒い石を持ち歩いていたと伝えられていました。家族や会津はずっと心の支えだったのでしょう。
「二十一人の墓」は千重子たちの死後、姪の登世子が骨を拾って建てたものだそうです。
こういう時代が今から約150年前のことです。遠い昔の出来事のように思われます。
番組は「二十一人の墓」の紹介から始まりました。「二十一人」とは会津戦争の時、西郷頼母邸にいた家族のうち女性全員だったようです。
西郷家は藩主松平家と親戚関係にあって更に徳川家にもつながる名門だったそうです。西郷家は会津若松城の真正面に屋敷があって敷地面積2400坪、部屋数38の大邸宅だったそうです。
番組は前半新政府軍によって猛攻を受けるまでの過程といよいよの時になって会津城へ籠城するように誘いが来たのを断り、生き恥をさらすよりもと自邸宅で自害した西郷頼母の妻と女性たちを描いていました。西郷頼母は妻千重子との間には長男のほか次々と6女を授かったそうです。千重子も上級武士の娘で長男はもとより娘たちにもいざとなったら藩主に忠節を尽くすように礼節を教えていたそうです。
そして西郷頼母自身は藩主容保が京都守護職に就任するのを「薪を背負って火の中へ行くのも同然」と反対を進言。しかし聞き入れられず蟄居を命ぜられたにもかかわらず、会津藩が朝敵となった危機的状況の中、家老に復帰。
ここでは新政府軍と講和に持ち込みたかったがこの時点では理解者は少なかった。いよいよ会津城が危なくなったら講和を主張するものが多くなって「何を今更」と反対する頼母は邪魔者になったらしくて追放されてしまったらしい。
番組後半は妻子を失った頼母が30年に渡る漂白生活を送ったことを伝えていました。
頼母は降伏すれば会津の恥を晒すことになると激怒して長男吉十郎を伴って城を出たそうです。北海道に向かう旧幕府軍に合流して敗れ幽閉。幽閉が解かれたとて会津には帰る家もなく流浪の身となりました。その後の生活は私塾の教師をして糊口をしのぐなど生活は楽ではなかったようでした。その中で最大の悲劇はそれまで生きる支えだった長男を病気で失ったことでした。その後約20年各地を渡り歩いたそうです。そんな頼母ですが最後には会津へ帰って居を構えたそうです。この住居の玄関は戸はなくむしろを掛けただけのものでした。お金を他人に無心することもしばしばあったそうです。
生き恥をさらすことを嫌った頼母がなぜそういうことをしたかといえば家族の墓のそばに自分の墓を立てたかったからだそうです。頼母の墓には当時としては珍しい夫婦の名前が刻んであるそうです。
頼母は漂白の時代にも磐梯山に似た格好をした黒い石を持ち歩いていたと伝えられていました。家族や会津はずっと心の支えだったのでしょう。
「二十一人の墓」は千重子たちの死後、姪の登世子が骨を拾って建てたものだそうです。
こういう時代が今から約150年前のことです。遠い昔の出来事のように思われます。
はじめまして。なぜ戦わなきゃいけないのかと思いましたし本当
せつないです
もっと早く興和をすれば悲劇はうまなかったのに
会津戦争って
第二次世界大戦の沖縄本土上陸戦にも似てるなって思いました。
by ぇみか (2013-06-24 21:25)
ぇみかさん、コメントありがとうございます
もっと早く決断をと思う場面は色んなところで出て来ますよね。
適切な時期の判断が大変難しいのでしょうね。
by meguchan (2013-06-29 17:17)